見てから読むか、読んでから見るか。
いつも考えちゃう、映画とその原作の優先順。今回は、見てから読んだ話。
16人の俳優さんたちの顔をずらっと並べ、いかにも豪華なキャスティングが売り、という感じのポスターが作られている映画『清須会議』。でも、この布陣は伊達じゃない。それぞれの登場人物のキャラクターが活きた、とても面白い映画でした。
タイトルからすぐにはピンとこなかったのですが、「清須会議」は織田信長の死後、織田家の跡目を決めるために、家臣たちが清須城に集まった会議。
会議の結果後継者に決まった信長の孫、まだ幼い三法師を、秀吉が抱いて家臣一同が居る大広間に現れたので、皆が秀吉に頭を下げる格好になった、というエピソードが記憶にあります。
戦国時代の物語の映画というと、どちらかというと画面は地味で暗め、出演者が皆揃って眉間にしわを寄せたこわい表情で、低い声の怒鳴り口調でしゃべっている、という印象が強いのですが、この映画はそのあたりが大分違います。
戦場シーンはほとんどなく、会議のために集まった面々が、清須城内のあっちでこそこそ、こっちでこそこその会合を持ちながら味方を増やそうとする5日間の心理戦、という「喜劇」です。
何とか主導権を握りたい秀吉。戦場での闘い一筋の柴田勝家。柴田と親しい理論派の丹羽長秀。秀吉憎しのお市の方。中庭を取り囲むように配されたそれぞれの部屋から、相手の様子を伺いながら戦略を練る、という具合です。
衣装は華やか、人物キャラクターも明るく描かれ、セリフは現代語と、見ていても話に気持が入り込みやすく、ラストシーンには晴れ上がった青空がポーンと映し出されて後味もさわやか。
見終わってすぐに、これは原作も読まなくちゃ、と思いました。
書店で入手した文庫本には表紙が二枚。元々の表紙に映画のキャンペーンデザインのものをかぶせてあります。
あら、よく見たら、オリジナル表紙のイラストでは、秀吉らしき武将がスマホで電話してる。柴田勝家の膝元には新聞のような紙束が。
映画同様、本の文体も現代語で、スケジュールとかパフォーマンスといったカタカナ語がポンポン飛び出すのですが、それと同じく、この絵も時代を横断しています。
小説の1ページめを読み始めてまた驚いた。スタートは、火に包まれた本能寺の中で死を迎えようとしている織田信長の心中を表すモノローグ。
70歳まで生きるつもりだったとか、明智光秀の人相が悪いのがいけないとか、一応武士らしく死ぬために腹でも切るかとか。「人間五十年~」と歌いながら死んでいったとよく描かれる、凛々しい信長像とは大違い。
ついでに、これは、映画の台詞には無かったはず。こうしたモノローグの内容は、俳優さんたちの演技や演出という別の形で映像化されていました。
小説は、全編、登場人物のモノローグ調の語りのリレーで綴られていて、映画作品とはまた別の心理描写が楽しめます。
この、映画と原作小説を、別物としてそれぞれ楽しめた、ということは嬉しい驚きでした。
小説を先に読んでいてそれが映画化された物を見る場合、映像化による制約によって切り落とされてしまう部分、例えばストーリーが簡略化されたり、好きな場面がカットされていたり、結末が変わっていたり、に不満を覚えることがよくあります。
映画を見てから原作を読む場合は、登場人物がそれを演じた俳優さんの姿でしか想像できなくなったりするなど、映像のイメージに引きずられてしまう。
そんなことで、見る楽しみや読む楽しみが、ちょっと少なくなっちゃうような気がするんです。
でも、そこが、『清須会議』はとてもよく出来ています。多分、読んでから見ても十分楽しめたんじゃあないかな。
ま、小説の著者も、映画の脚本・監督も三谷幸喜氏という一人三役ならではの結果ということはありますが、小説の着想に始まる「清須会議」という素材を、手を変え品を変え調理して、別々の美味しい料理にして出してくれているという感じ。
が、あえて難を言えば、映画の最後の場面がちょっと余分な感じがしました。
会議が終わって城を去る柴田勝家に、秀吉夫婦が挨拶する場面なのですが、付け足しみたいで、無くても良いんじゃないかというか、むしろ無い方がすっきりするような。
でも、同じ場面が小説にもあって、読む分にはそこに蛇足感はまったく無い。
そんな印象の違いが「見る」と「読む」」に出るところも、面白いですね。
同じ登場人物、同じストーリーの2つの上質なエンターテイメント作品。年末年始のお休み
中の楽しみにもおススメです。
炬燵に入って「読む」も良し。
映画館で「見る」も良し。
読んでから見るも良し。
見てから読むも良し。
良いエンタメ作品を片手に、
良い年をお迎えください。
Author: 吉原 公美
傾向がないという